ラマダン ― 信者の資質を磨く修行の月

Penulis Ustadz Nasril Albab, MA Al Hafidz (Imam Besar Masjid Indonesia Tokyo) (1)

信者である私たちは、ラマダンが訪れると喜びとともに、この神聖な月を迎えるための準備を整える必要があります。その準備には、ラマダンに関する知識や、その背後にある学問を身につけることも含まれます。

知識面では、単に断食の方法を学ぶだけでなく、断食という義務の本質や意味を理解することが大切です。

たとえば、 「断食をはじめ、アッラーがしもべたちに課した義務は、最初は実行が困難に感じられるかもしれませんが、実際には多くの祝福と恩恵が返ってくるものです。」 という考え方があります。なぜなら、実際のところ、義務には見合う報酬があり、アッラーの計算ではその価値はさらに大きいからです。

例を挙げるなら、ある時点で、人は仕事の負担を感じなくなり、感情ではなく、受け取る給料が正当であると納得できるようになるように、断食においても同様の意識改革が求められます。

アッラーを愛し、聖なるラマダンに断食の儀式を行う者は、アッラーの許しを得ることで、断食に対する負担感を感じず、大いなる報酬を期待できるのです。

また、断食の義務は、個人の内面を高める「ソリー」と、社会全体の調和を図る「ムスリー」の両面を育むためのものです。これら二つの美徳は、断食を通じて養われます。なぜなら、現実やコーランの教えを見ても、人間には多くの欠点があるからです。

こうした欠点を補うため、アッラーは私たちに、特定の目的をもった断食や、信者をより敬虔な存在に導くための規律を授けられたのです。

「敬虔な召使」とは、アッラー を常に崇拝し、礼拝を欠かさない者のことを指します。その一貫性が、個人としてだけでなく、他者との交流においても良い行いへとつながります。

さらに、アッラーは人類に対する警告と慈悲として、コーランに人間についての教えを残されています。これにより、人々は常に良い人間であろうと自覚し、アッラーへの崇拝の心を養うのです。

コーランに記されたアッラーの人間に関する注釈には、次のようなものがあります。

1. 人間は弱い存在である

يُرِيدُ ٱللَّهُ أَن يُخَفِّفَ عَنكُمْۚ وَخُلِقَ ٱلۡإِنسَٰنُ ضَعِيفًا

(An-Nisa’ 4:28)

「アッラーはあなたがたに課されているものを軽くすることを望む。。人間は、か弱く創造されているため。」

2.人間は簡単に騙される


يَٰٓأَيُّهَا ٱلۡإِنسَٰنُ مَا غَرَّكَ بِرَبِّكَ ٱلۡكَرِيمِ

(Al-Infitar 82:6)


「人間よ。あなたの主たる高貴な御方について。何があなたを欺いたのか。」

3.人間は過剰になりがちである

وَإِذَا مَسَّ ٱلۡإِنسَٰنَ ٱلضُّرُّ دَعَانَا لِجَنۢبِهِۦٓ أَوۡ قَاعِدًا أَوۡ قَآئِمًا فَلَمَّا كَشَفۡنَا عَنۡهُ ضُرَّهُۥ مَرَّ كَأَن لَّمۡ يَدۡعُنَآ إِلَىٰ ضُرٍّ مَّسَّهُۥۚ كَذَٰلِكَ زُيِّنَ لِلۡمُسۡرِفِينَ مَا كَانُواْ يَعۡمَلُونَ

(Yunus 10:12)
「困難に遭ったとき、人間は横たわっていても、座していても、あるいは立っていてもわれらに呼びかける。しかしわれらが困難をとり除くと、困難に遭ったためにわれらに呼びかけたことはなかったかのように通り過ぎてゆく。このように、行き過ぎた者には自分の行いがすばらしいことのように見えている。」

これらの教えは、弱さゆえに陥りがちな人間が、断食を通じて謙虚さを学び、自己を律するためのものです。断食の実践は、孤独な時も集団の中にいる時も、揺るがぬ正直さと誠実さを保つ訓練となります。なぜなら、その実践を見守るのは、ただ一人、彼の主であるアッラーだからです。

さらに、人間は浪費や過剰に走りやすい傾向があるため、断食を通じて自制心を養い、他者への思いやりや、必要以上の欲望を抑える意識を持つようになるのです。

どうか、自己の内面を見つめ、ラマダンの素晴らしさを実感し、アッラーから授けられた義務を熱心に、そして完璧に遂行できるよう祈っています。今年もまた、ラマダンの月に皆様とお会いできますように。

アーミン

著者: ウスタズ・ナスリル・アルバブ、M.A アル・ハフィズ
(東京インドネシアモスク大イマーム・ナフダトゥル・ウラマー日本特別支部宣教機関役員)
編集者: ディナ・ファオジア、Ph.D.